あとの祭り書き
セカイノオワリをあなたと
先日ボイストランドにアップした「セカイノオワリをあなたと」のあとの祭り書きです。
こちらは「救いの詩/滅びの詩-世界が終わる時、僕らは」というイベント、通称「すくほろ」の一般企画参加シナリオとして書き上げたものです。
実はこの物語の構想は、もう数年前からありました。今回「すくほろ」企画が発足して、題材的にも「今こそ書かねば」と思い立ち、思いのほか筆が進んで一般参加シナリオとして整えるに至りました。
当初は「彼女がひとりで歩いていく物語」として考えていました。しかし声劇シナリオとして形にするにあたり、彼女一人と大勢の人々(兼ね役)を出会わせる構成では演じる側に負担が大きいと感じ、思い切って「彼と彼女の二人視点」に変更しました。
出会う人々をモノローグに組み込むことで、二人がそれぞれ終末にすれ違う人々を切り取るように描けたのではないかと思っています。
彼が出会うのは「日常を覆す事で大事なものを守ろうとする人々」。彼女が出会うのは「日常を通そうとすることで歪んでいく人々」。
けれどその誰もが、世界の終わりにただ「あなた」といたいと願っているのです。たとえその叶え方や結果が歪んだものであっても。
子供は母と、母は子供と。店主は店と。老人は先立たれた妻と。妻は出ていこうとした夫と。ヴァイオリニストは音楽と。
そしてまた、この作品には「世界がいつ、なぜ終わるのか」は描いていません。……手抜きではありません、よ!重要なのは「いつ、なぜ」ではなく、「終わる」という事実そのもの。そのとき、人は「なに」を必要とするのか。――そこに焦点を置きたかったのです。
ラストシーンにおいては、彼の家のドアノブに彼女が手をかけたところで終わっています。ドア1枚隔てた2人。このドアを開けたらどうなるのか、2人のこの短くて濃い旅は終わるのか。会いたかった気持ちは?自分の存在意義は?答えはでるんだろうか。でももしかしたら開けるこの瞬間に顔を合わせることなく世界は終わるのかもしれない。
世界の終わりが来ても来なくても、人生ってそんなものじゃないかと思うんです。来ても、来なくても、「あなたと居たい」と思えることは確かに幸せです。けれど、それを幸せだと気づくのは"終わり"という絶望を突きつけられたからこそ。世界が終わるということ自体が、すでに絶望。たしかに、その絶望の中で大事なものに向き合わざるを得ず、その中で小さな救いのような瞬間が生まれることもあるでしょう。けれどそれは、終わってしまう絶望を突きつけられたからこそ得られたもの。本当は――終わらなければ、向き合わずに済んだし、気づかなくてもよかった。この企画では「救済」か「絶望」を選ばなければなりませんでしたが、そんなわけで私は、この物語を「救済」ではなく「絶望」として描きました。その絶望の先で、「なにを必要とするのか」を感じてもらえれば、と思います。
正直、ほぼ全編にわたりモノローグなので、演者さんに敬遠されるかもしれないという懸念もありましたが、これが秋の鹿の紡ぐ「世界の終わり」です。
彼と彼女、それぞれのモノローグだけで進む形をとったので、二人が見ているもの、感じているものが交互に現れることで、一枚の風景が立ち上がっていく――そうなればいいな、と思っています。
モノローグ、というのはナレーションや、朗読とはまた違うもの。あくまでそのキャラクターの思考と鹿は意識していますが、読み手や演じ手の解釈によって、まったく違う温度の物語になるかもしれません。
また、二人の目の前に現れる人々については、声色を変えて演じ分けてもいいし、彼・彼女の視点としてそのまま読むのも一つの解釈です。楽しんでいただければ幸いです。
そしてそのアーカイブを聞けることを楽しみにしておりますね。
ではまた。